日本の協力が大きな支えに
1978年、中国は改革開放という歴史的選
択の岐路に立っていた。この重要な歴史的瞬間
に、中国は日本から改革の構想と計画を参考に
しただけではなく、日本側から技術や資金、マネ
ジメント経験のサポートを得た。そのため、日本
は中国の改革開放の重要な参加者であり、強力
な後援者でもあった。
月に鄧小平氏は日本を訪問した。これ
には二つの目的があった。一つは、中日平和友好
条約の批准書交換式に出席するため。もう一つ
は、日本経済を視察し、改革開放の構想の正しさ
を検証し、中国の改革開放が参考できる経験を
見つけるためだ。
訪日期間中、鄧氏は園田直外務大臣や大平正
芳自民党幹事長らから日本経済の状況を紹介し
てもらい、戦後の日本経済の発展に理解を深め
た。鄧氏は日本の「経済中心で、門戸を開放し、
チャンスをつかみ、難関を克服する」発展の経験
を評価した。中国の改革開放後、経済中心の戦略
方針が提起されたのは、日本に対する鄧氏の認
識と無関係ではない。
特に、鄧氏と会談した大平氏(当時は自民党幹
事長)が、中国の経済建設に日本政府の借款を利
用することができると提言したことは特筆に値
する。その後、東京を訪れた谷
牧副総理が円借款に関する協
議をしたのはまさにこの会談
がきっかけだ。79年に訪中し
た大平首相は、日本政府から
の贈り物として円借款供与を
正式に始動した。当時、円借款
は一時期、中国のインフラ投
資
中融資
が固まった。
%、外国政府による対
進作用を果たした。
%以上を占め、中
国の経済建設に対し重要な推
鄧氏は新日鉄君津製鉄所を
見学し、熱延鋼板製造の壮観
な場面を目にして感慨深く
次のように述べた。「鋼鉄は
経済発展の重要な支柱で、当
時われわれは(年間生産量)
1080万㌧の目標を達成す
るために苦心を重ねてきた。
今後、われわれもこのような
先進的な製鉄所を持たなけれ
ばならない」。これによって、
上海の宝山製鉄所設立の基礎
鄧氏は松下電器(現・パナソ
ニック)を見学中、電気製品の