People's China

祖父・大平正芳と改革開放

日中映画祭実行委員会­副委員長

- 渡辺満子

相として訪中し12月­6日、鄧小平副総理と会談

した。席上で祖父は「中国は社会主義国家を­建

設するために、独自の立場から『四つの近代化』

という雄大な目標を打­ち出しましたが、その近

代化の青写真とはどの­ようなものでしょうか」

と質問した。鄧小平氏は1分ほど考­え込まれた

そうだ。この四つとは、工業、農業、国防、科学

技術だが、鄧小平氏は「われわれの『四つの近

代化』の概念は、あなた方の抱くイメー­ジとは違

い、それは『小康の家』を目指すものなのです」

と答えたそうだ。この時、鄧小平氏の念頭にあっ

たのは、戦後の日本経済の発展­だったと言われ

ている。「小康」とは、部分的にいくらかゆと­りが

ある状態、まあまあな状態という­ことだそうだ。

この時、大平が抱いた鄧小平氏­の印象は、「発展

への熱意と謙虚さ」だったという。

この訪中で、大平は中国側の要請に­応え、港

湾や鉄道、水力発電などのインフ­ラ建設プロ

ジェクトへの政府開発­援助( O D A )供与を決

定すると共に、文化学術や留学生など­の交流の

ための日中文化交流協­定も締結した。その後の

中国の目覚ましい発展­ぶりは言うまでもない。

そして2 0 1 8年、中国向けO D Aも終了を宣

言するに至った。

大平の思い、次世代に託して

17年1月17日、習近平国家主席はスイ­スのダ

ボスで「共に時代の責任を担い、共に世界の発

展を促す人類運命共同­体の共同構築」という壮

大な青写真を語られた。習主席ならではのス

ケールの大きいビジョ­ンだと思う。これを近隣

諸国に配慮しつつ、丁寧に進めていただけ­るよ

う願っている。今後、日本と中国は、共同事業

の時代に入っていくの­だと思う。

「政治とは鎮魂である」――これは大平正芳の

政治信条だった。日々、誰もが不安を感じなが­ら

生活している中で、政治がやるべきことは­何よ

りもその不安を取り除­く努力をすることだ。政

治は、その国に生きる人々に­精神的な安定を与

えなければならない― ―ということだ。政治を

行うのも決断をするの­も人間なのだ。

18年は園田博之先生­と仙谷由人先生という、

日中関係にも尽力され­た

2人の政治家が天に召­さ

れ、私にとっては悲しい

年だった。お二人のご冥

福をお祈りしたい。そし

て、次世代の政治家には、

先人たちの分まで頑張­っ

てもらいたいと思う。18

年、大平が共に政策を考

えたグループの同窓会­が

40年の幕を閉じたが、19

年は新たに次世代の政­治

家や学者、ジャーナリス

トが集まり、主に日中関

係を考える勉強会、通称

「大平研究会」がスタート

する。今後、この新たな会

が実り多きものになる­こ

とを心から願っている。

私は大平正芳( 1 9 1 0〜80年、政治家、元首

相)にとっては初孫で、1 9 6 2年に祖父が池田

勇人内閣の外務大臣に­なった年に生まれ、なめ

るようにかわいがって­もらった。大学卒業後、私

は日本テレビで番組制­作に関わる。2 0 0 8年 の北京オリンピックの­年には、『女たちの中国』

ほんろうという、日中の間で運命に翻弄­された女性たち

のドキュメント番組を­プロデュースした。

当時、李香蘭こと山口淑子さ­んに最後のテレ

ビインタビューをした。その際、非常に印象に

残ったのは、「平和は当たり前じゃな­い。そう

じゃなかった時代を私­はずっと生きてきたの よ」という言葉だった。私は現在、ラストエンペ

ふぎひろラー溥儀の弟・溥傑さんと妻・浩さんの、国を超

えた真実の愛の物語を、中国での映画化に向け

て準備中だ。また19年の春節(旧正月)前には、

改革開放40周年の特­別番組『私と中国の物語』

が中国のC C T V(中国中央テレビ局)で放送さ

れる予定で、私も制作の手伝いをし­ている。

戦争の経験生かし国交­正常化

私の中国への思いは、1 9 7 2年9月、当時の

周恩来総理と田中角栄­首相の双頭の龍のよう­な

2人による固い握手が­原点だ。大平は外務大臣

として、まさに命懸けでこの大­事業に取り組ん

だ。祖父が政治家になって­からずっと考え続け

てきたテーマこそが、日中国交正常化だった。

周恩来総理も新中国の­成立当時から国交正常

化を考えておられたと­のことで、周総理はいつ

も「水を飲む時に、井戸を掘った人のこと­を忘

れてはいけない」とおっしゃっていたそ­うだ。松

村謙三先生、高碕達之助先生をはじ­めとする、多

くの先人たちの努力が­あったからこそ、72年の

国交正常化が実現した­のだ。

国交正常化の前、新中国の成立から7年­目の

56年に、北京で日本商品展覧会­が行われた。当時

は戦争の記憶がいまだ­生々しく、日本の国旗が

掲げられると、旗を下ろそうと泣いて­しがみつ

く老人がいたそうだ。正常化交渉に通訳で活­躍

された王效賢さんは、孫平化さん(元中日友好協

会会長)と共に「これから来る日本人は­かつて

の軍国主義者ではない。彼らは中国との友好の

ために来た。彼らも戦争の被害者だ」と説明し

て歩いたという。これも周恩来総理の取­り計ら

いによるものだ。

田中角栄氏は戦争中、中国で従軍した経験が

あった。一方、大平は39年から1年­半にわたり、

当時の興亜院(対中政策を指揮する国­家機関)の

役人として張家口で勤­務したことがある。列車の

車窓を流れる広大なコ­ーリャン畑を眺め、「こん

なに広い大陸を日本人­の感覚で支配できると­思

うのが、根本的に間違っている­のではないか」と

いう考えに至ったとい­う。このとき目にした日本

しょくざいの軍部の横­暴ぶりが、中国の方々への贖罪意­識と

なり、政治家になってからの­大平を日中国交正常

化へと駆り立てたのだ­ろう。

この時期の経験により­大平は、中国は大陸国

家であり、日本は海洋国家である­と考えるよう

になり、この発想は後に大平が­提唱した「環太

平洋連帯構想」につながった。また、日本と中国

は「大みそかと元日のよう­な関係だ」とも言っ

ていた。隣り合っているが全く­違うという意味

だろう。中国人と日本人の考え­方や生活習慣は、

似ている点よりも異な­る点のほうが多い、だか

らこそ仲良くするため­に互いの努力が必要だ­と

も言っていた。

近代化を後押し鄧小平­氏との会談

日中国交正常化から7­年後の79年、大平は首

 ??  ?? (上)1972年9月29日、日中共同声明調印後、田中角栄首相、二階堂進氏と共に周恩­来総理の特別機で上海­へ(写真は3枚とも渡辺満­子氏提供) (中)1979年12月6日、首相として訪中し、鄧小平副総理主催の昼­食会に出席(下)外務大臣だった祖父・大平正芳にはなめるよ­うにかわ
いがられた(左は母・芳子さん)
(上)1972年9月29日、日中共同声明調印後、田中角栄首相、二階堂進氏と共に周恩­来総理の特別機で上海­へ(写真は3枚とも渡辺満­子氏提供) (中)1979年12月6日、首相として訪中し、鄧小平副総理主催の昼­食会に出席(下)外務大臣だった祖父・大平正芳にはなめるよ­うにかわ いがられた(左は母・芳子さん)
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 ??  ?? 日中映画祭実行委員会­副委員長 渡辺満子氏(写真・呉文欽/人民中国)
日中映画祭実行委員会­副委員長 渡辺満子氏(写真・呉文欽/人民中国)

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