漢字 ―共通認識の貴重なツール
た、それはホームレスだ、失業者だ)」と叫ぶ始
末だった。そして、「一杯、一杯、また一杯」の箇
所にしても、中国人と日本人なら、おちょこで
悠々と酒を酌み交わすイメージが自然に湧いて
くるが、米国人は杯ではなく、コップをイメージ
してしまうため、アルコール依存症のホームレス
がウイスキーをコップでがぶ飲みしているよう
な、誠に詩の意図とはかけ離れた想像しかでき
なかったようである。西洋と東洋では、こんなに
も開きがあるから面白い。
さて、角度を変えて日本でかなり以前に上映
された中国映画で、ご覧になられた方も多いか
と思うが、中国語の題名で『那山、那人、那狗』
(あの山、あの人、あの犬)というのがあった。山
村でこつこつ働く郵便配達人を描いたこの映画
が日本で上映されたとき、題名は『山の郵便配
達』に変えられた。中国の観客は『あの山、あの
人、あの犬』という文学的な題名から多くの情景
を連想するだろうが、原題のまま『あの山、あの
人、あの犬』と直訳したならば、日本の観客には
チンプンカンプンだったに違いない。日本で題名
を決めるとき、800に及ぶ候補の中から選んだ
と聞いたが、これは中日両国の文化的背景の相
違や受け止め方の違いなどを考えて工夫された
ものであり、成功した例だと思う。
テレビのC Mにも、中日両国の文化の違いを
配慮して作られた例がある。例えば、インスタン
トコーヒー「ネスカフェ」のC Mだが、日本のテ
レビでは、キャッチフレーズは「コーヒー飲み
のコーヒーネスカフェ」となっていたのに対し
て、中国のテレビのキャッチフレーズは「味道好
極了! (味は最高! )」となっている。明らかに、
日本にはコーヒー飲みの通が多く、通にとってイ
ンスタントはあまり歓迎されない向きもあるの
で、そうした通をターゲットに「コーヒー飲みの
コーヒー」というキャッチフレーズにしたのだと
考えられる。しかし、中国人向けには、特に味の
良さを強調して「味道好極了!」としているの
が特徴であると言えよう。もし、そうした文化的
背景の違いを無視して、中国の視聴者に対して
も「コーヒー飲みのコーヒー」と宣伝したならば、
効果が半減すること請け合いだ。
日常使われていることわざや言葉の表現にも、
文化の違いが現れている。例えば、元来良いもの
は条件が悪くなっても値打ちが下がらないこと
の例えを、日本では「腐っても鯛」と言うが、中
国では、「痩せ衰えたラクダでも馬よりは図体が
でかい(痩死的駱駝比馬大)」と表現する。二つの
ことわざの違いの背景には、四方を海に囲まれ
た海洋国日本と、大陸西部に巨大な砂漠を有し、
海を見ずに一生を過ごす人々が珍しくない中国
との環境の違いがあるのだろう。
また、夏の海が海水浴客で混雑している状況
を、日本人は「芋を洗うよう」と言うが、中国で
は「像煮餃子(ギョーザを煮るよう)」と表現する。
日本ではギョーザといえばもっぱら焼きギョー
ザのことを指すが、中国では水餃子が圧倒的に
ポピュラーで、大鍋に大量のギョーザを入れてゆ
でる。煮えたぎった鍋の中で浮き沈みするギョー
ザが、まるで人がひしめき合っているように見
えるというわけだ。ギョーザは日本でも大変ポ
ピュラーになっているが、それでも人が混雑して
いる状態を「ギョーザを煮るよう」と言ったの
では、ピンとこないと思う。いま日本の家庭で、
大量の芋を洗う光景はほとんど見られなくなっ
たが、中国で水餃子作りは日常茶飯事で、その意
味でも「ギョーザを煮るよう」は、誠にリアルで
現代的な表現であると言えよう。
さて、日本はその昔、中国から漢字を輸入し、 中国もまた近代に入って日本から数多くの日本
ごい製の漢字語彙(ボキャブラリー)を輸入している。
そのような大量の漢字の行き来がありながら、
過去、両国の間で漢字に関する限り、著作権の問
題で一度たりともトラブルが起きたことはない。
漢字文化は昔も今も、両国でスムーズに流通し、
仲良く共存しているのである。
中国と日本はお隣同士。正月には縁起を担ぎ、
日常の生活では箸を使って食事をするなど、文
化的に多くの共通点がある。そうはいっても、や
はり、異文化といっていいような相違点がたく
さんあることも見逃せない。共通点を認める一
方で、文化の「相違」も存在していることを率直
に認めるべきではないだろうか。
ある意味では、相違点を認めた上で、互いに理
解を深めて初めて、真の友好を築くことができ
る― ―そんなことを考えて、今年の連載は、中日
間の文化比較を中心に、日頃考えていることを
まとめてみることにした。
さて、本題に入る
が、第1話としてお
互いに毎日使ってい
る〝漢字〞と漢字を
巡る文化の違いを取
り上げてみたい。
中国人と日本人
は、同じ東洋の民族
であり、顔つき、骨
格も酷似し、漢字と
いう共通の言語媒体
を持った国同士であ
る。特に漢字は中国、
日本の両国民がお互
い、何の予備知識が
なくても、簡単に理
解し合い、共通の認識を持ち得る実に貴重なツー
ルである一面を見落とすわけにはいかない。
ゆうじん李白の有名な詩に『山中、幽人と対酌す』とい
うのがある。
両人対酌山花開, りょうにんたいしゃくさんか両人対酌山花開く 一杯一杯復一杯。
ま一杯一杯復た一杯 我醉欲眠卿且去,われよねむきみしばら我酔うて眠らんと欲す卿且く去れ
明朝有意抱琴来。 みょうちょうこといだ明朝意あらば琴を抱いて来れ 少しでも漢文の教養のある日本人なら、タイ
けんそうトルの「幽人」と聞けばすぐ、都会の喧騒を逃れ
いんとんて閑静な田舎暮らしをしている隠遁者だな、と
見当がつくに違いない。ところが、米国ではそう
はいかない。ある日本人が米国でこの詩を朗詠
したとき、「幽人」についていくら説明しても、米 国人にはこの感じがつかめず、ついには想像力豊かな一人が、「Oh! I see. It is homeless(.分かっ
ESSAY楽しい異文化の旅1