歴史と現代が溶け合う
逍遥津
してきた写真と機材の数々を見ても
らいたいです。これらは全て、あの素
晴らしい時代の思い出であり、私の
宝物なのです」
150年親しまれ続ける味
ギョーザ「米餃子」は、三河古鎮の名物料理だ。
文字通り、米餃子とは米でできた餃子
のこと。普通の水餃子とは違い、米餃
子の皮は小麦粉ではなく、米をすりつ
ぶした粉を練って作られる。その大き
さは普通の水餃子の2倍ほどあり、沸
騰した熱湯でゆでるのではなく、十分
に熱した菜種油に浸して揚げて食べ
る。米餃子の具も普通の餃子とは少し
違っている。具の主な材料は、巣湖で
獲れた「白米エビ」と現地の水豆腐を
切り刻んで混ぜたものだ。エビの新鮮
な香りが、作っている最中から人々の
食欲をそそる。
揚げたての米餃子はきつね色に輝い
ている。一口かじると、外はカリッと
香ばしく、中はもっちりエビの甘みが
際立つ。おやつとしても主食としても
食べられる米餃子は、一度食べたらや
みつきになるおいしさだ。
三河古鎮で最も長く米餃子の店を
営んでいるのは、戴
世勤さん(52 )夫妻
だ。この道30年の戴
さん夫妻は、毎日寝
る前に餃子の具を
しっかり混ぜてな
じませ、仕込んでお
く。そして翌日の早
朝5時から餃子の
皮をこねて米餃子
を作り始める。戴さ
んによると、夫婦2
人で毎日6 0 0か
ら7 0 0個ほどの
米餃子を用意する。
たいてい店じ
まいの前には
売切れになり、
一番多い時で
1000個近
く売れた日も
あった。
慣れた手つき
で餃子を包んで
鍋に入れる戴さ
んの横には、母
親に買っても
らった米餃子を
熱い熱いと言
いながらおいし
そうに食べる
子どもの姿が
あった。 米餃子の作り方を動画でチェック!
今の人が通るには、やや狭いと感じ
てしまう。同じく「一人巷」とは、1
人しか通れない通りのこと。昔の人
がなぜこのような通りを作ったのか
はいまだ明らかではない。ただ、その
細い通りを抜けた先に待っている歴
史物語は、ここを訪れる人を絶えず
魅了しており、両側に高く積まれた
灰色れんがの壁の間から、「一人巷」
を通して見える青い空は、美しく、神
秘的な色彩を帯びている。
老舗――生きた古鎮の記憶
合肥市肥東県の南に位置する長臨
河古鎮の歴史は三国時代(220〜
2 8 0年)までさかのぼることがで
き、今日に至るまで、既に1 7 0 0年
以上の歴史を刻んでいる。ここは古
代、水陸両路の要衝として栄え、巣湖
北岸地帯の重要な市場だった。米、布、
薬、酒、郵便など、各種商店が軒を連
ねていたが、その老舗の多くが今で
は営業を停止しており、一部が博物
館として開放されている。
子どもたちが追いかけっこしなが
ら駆けてゆく声を聞きながら、街を
ゆったり散歩していると、ふと薄茶
色の木の看板が目に止まった。「留真
照像館」。ここは古鎮にたたずむ老舗
の一つ、77年の歴史を持つ写真館だ。
現在のオーナーである徐暁華さん
(60 )の父親の代から営業している。
徐さんの父親の徐景林さんは、子ど
もの頃から、常州にある祖父母の家
で写真に関する技術を学んだ。後に
故郷である長臨河へ戻り、1941年
にこの店を開いた。この写真館は半
世紀以上にわたって人々の成長と町
並みの変化を見つめてきた。その間、
写真撮影に使われるフィルムはガラ
スからポリエステルなどへと変わり、
現像した写真もモノクロからカラー
へと変化を遂げてきた。82年、徐暁華
さんは父親から写真館を受け継いだ。
それからというもの、徐さんは長臨
河の人々のためにたくさんの写真―
―長臨河中学校の卒業写真、付近の
会社の登録写真、84年に登場した第
1世代身分証明書の証明写真などを
撮った。90年代に入ると、春節(旧正
月)に新年の記念写真を撮ることが流
行した。徐さんは店に詰め掛けた市
民のために夢中でシャッターを切り
続けた。徐さんは写真を撮ることで、
町の発展の足跡を一つ一つ確かに記
録してきた。8年前には、徐さんが
撮った写真を頼りに、80歳のおじい
さんが、湖のほとりに住む家族を探
し当てたこともあった。
徐さんは言う。「私も年を取りまし
た。子どもたちは今、北京で科学技術
の研究をしていますから、ここに連
れ戻して店を継がせようとは思って
いません。今後は、もっと多くの人に
足を運んでもらい、私が一番大切に
いつの間にか雑草が生い茂るように
なった。新中国成立から間もなく、政
府はその地理的な好条件を評価し、逍
遥津を国有化し、市民のために公園を
建設した。
逍遥津公園は合肥の人々にとって、
何世代にもわたる都市の記憶とも言え
る。今では、さまざまな電動アトラク
ションが園内に設置されているが、以
前、人々によく知られるスターのよう
な人気の遊具といえば、1 9 5 0年代
末期に作られた「象さん」の形の滑り
台だった。当時、公園には遊具がほと
んどなく、あるのはその白い滑り台と
シーソー2台だけだった。それでも子
どもたちは十分に楽しんでいた。その
後、園内がどのように改装されても、
この滑り台だけは当時のままそこに残
され、今でも合肥の人々の子ども時代
の楽しい記憶となっている。通りすが
りの若い会社員に話を聞くと、「昼間は
少し恥ずかしくて来られないけど、た
まに夜に友だちと来て、滑り台で遊び
ます。大人になっても、子どもの頃の
単純な遊びが恋しくなるん
です」と言っていた。
この滑り台も今年でもう
60歳だ。ぼろぼろになり、そ
ろそろガタがくるのではな
いかと思わせる。しかし、公
園の管理人は笑いながら、
「そんなことないんです」と
言う。実はこの「象さん」、管
理委員会が毎年定期的に清
掃・補修工事を行っている。
見た目がぼろぼろなのは、委
員会が年代感を保とうと、補
修工事の際、わざわざ元の味
わいを残しているからだ。
現在の逍遥津公園は、い
つ来ても子どもたちの楽し
そうな笑い声が絶えない。
2 0 0 7年まで、逍遥津公
園は入場料が必要だった。
90年代、ここは市民の休日
の憩いの場、そして若者た
ちのデートスポットとし
て人気だったが、入場料を
無料にしてからは、さらに
人気が高まり、休日になる
と遊びに来る人であふれ
かえるようになった。公園
内は東と西に分かれてい
る。東は「動き」を重視す
るエリアで、さまざまなア
トラクションや芝生、小さ
な動物園があり、天気が良
い日は芝生に寝転がる人、
たこ揚げをする人、踊り
を楽しむ人でにぎわって
いる。西側は「静かさ」を
テーマとし、公園建設当時
から残る小道やあずまや
があり、散歩や読書に向い
ている。
合肥の人に週末に出掛ける
先を尋ねると、老若男女を問
わず、3分の1の人は「逍遥
津」と答える。調べてみると、
そこは大きな公園で、合肥市
民にとても親しまれている場
所だった。『荘子』の「逍遥遊
篇」から名付けられた逍遥津
は古代、天下を争う英雄たち
の戦いの場だったが、今では
優しいまなざしで合肥の人々
を見守っている。さっそくそ
こへ向かった。
三国志の激戦の舞台
逍遥津の立派な入口をくぐり抜ける
と、真正面に1体の銅像が現れた。馬に
またがった三国時代の魏の武将、張遼
(169〜222年)の像。その勇ましい
姿と鋭い目つきは、かつてここで起きた
戦いを物語っているようだ。逍遥津公園
は三国時代の遺跡の上に建てられてい
る。2 1 5年、わずか8 0 0人余りの軍
隊を率いた張遼が、10万人の敵軍に白
旗をあげさせた、歴史上有名な「張遼
威震逍遥津(張遼の威、逍遥津を震わ
す)」の舞台となった場所がここなのだ。
古代、逍遥津は大きな港で、広い水域
を有していた。当時、孫権は10万余りの
軍隊を引き連れて、曹操が漢中に遠征
した隙を見て、逍遥津を襲撃しようとし
た。その時、逍遥津に残っていた張遼の
下には7000人余りの兵士しかおら
ず、とても太刀打ちできる状態ではな
かった。そんな中、孫権の攻撃を予測し
て下されていた曹操の命令に従い、張遼
は8 0 0人の突撃隊を引き連れ、機先
を制して、到着したばかりの呉軍に奇
襲攻撃をかけた。そして水辺という地の
利を使って、孫権たちが攻めてきた時に
渡った橋を壊して、逃げ道がなくなるよ
う追い込んだ。不意打ちをくらい、逃げ
道を断たれ、統率が乱れた孫権軍は、こ
うして張遼の作戦に白旗をあげること
となったのだ。この歴史に残る有名な戦
いは、今でも中日の三国志ファンを魅了
してやまない。
貴族の庭園から市民の憩いの場に
戦乱の時代が幕を閉じ、静けさを取
り戻した逍遥津は、裕福な貴族に買わ
れ、美しい邸宅の庭園となった。しか
し、時間がたつにつれ、貴族の地位は
没落し、逍遥津も日に日に活気を失い、