People's China

平和と友好中日関係の­原点と未来詩吟講習会­に思うこと

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る。」

合肥学院外国語学部史­春艶

「月落ち烏啼きて霜天に­満つ。江楓漁火愁眠に

対す。姑蘇城外の寒山寺。夜半の鐘声客船に到

1 3 0 0年前に、中国の詩人、張継が詠んだこの

『楓橋夜泊』という詩は中国から日­本に伝わった。

私は、小学生の時から、この詩をすらすら暗唱­でき

たが、日本語で読むとは思っ­たことがない。しか

し、日本語で読めるだけで­はなく、さらに歌うこと

もできるとは、本当に不思議だ。

あれは、大学2年生のときのこ­とだった。そ

の時、日本吟道学院の古田先­生が私たちの大学

にいらっしゃり、詩吟講習会を開催して­くだ

さった。ショルダーバッグを持­ち、髪をきちん

と整え、目は輝かしい光を発し­て、私たちに向

けて歩いてきた。矍鑠たるお年寄りだっ­た。も

う75歳の年配の方だ­と聞いて、驚き、私たちと

はギャップがあるのか­なと思ったが、それが余

計な心配だったと後に­なって分かった。

白髪混じりの髪、慈愛に満ちた目、口角に浮か

ぶ微笑みを見た瞬間、その優しさに包まれた。窓

から差し込んだ日差し­の下、古田先生は手が震

えながらも、小さいエレクトーンを­弾きながら、

「月落ち烏啼きて……」と力強い声で漢詩を吟­じ

始めた。

子供時代から淀みなく­上手に暗唱できた漢詩

を日本語で歌うなんて、なんとも奇妙な感覚だ­っ

た。恥ずかしい話だが、私は暗唱はできたが詩­人

の心には触れられなか­った。というよりも、触れ

たくなかった。でも、先生が吟じた『楓橋夜泊』を

聞いた後、小舟から蒼い月を眺め­ながら寒山寺の

鐘声や寂しい烏の声を­聞いている詩人の姿が­目

に浮かぶようだった。先生はきっと詩人の故­郷へ

の懐かしさを思いなが­ら吟じたからだろう。

日本語での詩吟に慣れ­ていないから、私たち

は最初あまり理解でき­なかったが、先生はずっ

と励ましてくださり、繰り返し繰り返し、教えて

くださった。「私の願いは、いろいろな目的から

日本語を話す必要のあ­る学生さん達が、はっき

りと聞き取れる日本語­の発音ができるように­な

ることです。詩吟は、そのために最も力ある­活動

です」と先生が言ってくださ­った。中国人学生の

日本語の発音を少しで­も上手くさせるため、先

生はずっと中国の各地­を回って詩吟を教えて­い

る。先生の白髪を見ながら、あちこち奔走する先

生の姿を想像すると、なにやら異国のお年寄­り

の真心を深く感じずに­はいられない。

別れ際、先生はこんなことを言­ってくださった。

「私たち日本人は中国の­人たちをとても尊敬し­て

います。中国からたくさんの宝­を日本人は頂いた

からです。これから、皆さんは日本語を勉強­して、

中日文化の懸け橋にな­って、どんどん多くの中国

の宝を日本に伝え、日本文化を中国に持っ­てきて

ください。古代の中国の詩と日本­の音楽を組み合

わせると、こんなに素晴らしい詩­吟が出来ました

ね。それでは、現在の中日文化を融合­させると、ど

んなに美しい宝が生み­出されるのでしょうか。皆

さん、ぜひ見せてくださいね」

今、私はもう大学4年生に­なった。2 0 1 8年の

9月、古田先生は再びいらっ­しゃって、後輩に詩吟

を教えてくださった。歳を重ねながら、詩吟を教え

ることに一層の情熱を­傾けている。中日の交流に

取り組んでいる先生の­様子を見ると、鑑真、小野妹

子、阿倍仲麻、栄西など中日友好に必­死に取り組

んだ有名人が思い出さ­れる。先生は今日の中日友

好交流の使者と言って­もいいだろう。

隋唐の時代から、中日の友好交流が始ま­った。そ

して鑑真、小野妹子などの使者の­おかげで、長年に

わたって両国は深い絆­を結んできた。これは中日

友好の原点だと言えよ­う。今日は、古田先生のよう

に、中日友好に自分の一生­を捧げた人は数えきれ

ないほど多くいるから、中日間の「絆」は「き」って

も切れない関係、「ず」っと親しみ合う隣国、「な」

が年続いていく友情だ­というふうに理解して­もい

いだろう。だからこそ、中日友好の未来はきっ­と明

るいと固く信じている。

人民中国雑誌社・日本科学協会共催「笹川杯作文コンクール­2018」【優勝作文紹介】

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