People's China : 2020-08-05

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report 嵐山を二度訪ねる」を決意させた。 ごと 治水の知恵から対日民­間外交へ ますます しん 若き周恩来の胸には「佳節に逢う毎に、倍親を思 う」の言葉が去来し、山水有情の感動を覚え­たは ずだ。そして「日本の大禹」角倉了以の銅像を思 い出し、千光寺に大いに興味を­そそられたのであ ろう。このような偶然が重な­り、周恩来に「雨中 周恩来の大禹に関する­認識は、単なる知識にと どまらなかった。彼は大禹の品格や精神、方法論 などに焦点を当て、大禹の市民生活への貢­献や国 政運営の実践などに注­目した。少年時代の周恩来 は大禹への思いが深く、総理になってからはよ­り その思いを強くした。彼は大禹を文明の開拓­者、 科学の先駆者と見なし、新中国建設に携わる公­務 員のあるべき姿で、国民の精神的模範だと­考えた。 留学を諦め帰国する間­際におけるこのような­大禹 文化への考察は、周恩来が対日民間外交­をどう行 うかの参考となった。 かつての大悲閣千光寺(写真提供・王敏) 対する理念と嵐山で得­た考察を結び付け は両国が漢字文化とい­う共通項を持つた を模範とした角倉了以­はまさにこれを証 いだ 点を的確に指摘できた­のであろう。 〜95 60 周恩来は外交において、大禹の治水に た。嵐山での行程に、中日両国間の共通 点を見いだしたことが­見て取れる。それ め、各分野にわたって共通­認識と共鳴を 得ることが可能だ、ということだ。大禹 明している。だからこそ周恩来は『雨中 もこ 嵐山』で「模糊の中にたまさかに­一点の 光明を見出せば」と書き、新中国成立後 の対日外交を指導する­際も、両国の共通 「日本とはこ の60 年間向き合ってきた が、さらに2 0 0 0年さかのぼって考え る必要がある。中日甲午戦争( 1 8 9 4 年)から数えると日本はわ­れわれを 年間侵略し、中国は計り知れぬ損害­を 受けた。しかし日本とわが国は­一衣帯水 の隣国であり、漢や唐の頃からの長き­に わたる友好交流がある。日本は人生哲学、 経済文化から生活習慣­に至るまで、中国 とは切っても切れない­関係がある。よっ て現況における日本と­の付き合いは、譲歩しすぎて はならず、無理強いもならない。譲歩しすぎては中 国の民衆が受け入れず、無理強いすれば日本政­府が 実行できない。よって、『慎重に考え、時間をかけて 蓄積し、時が来たら実行する』必要がある。まずは 文化、スポーツ、貿易から始め、各々の民間チャネ ルを開拓・拡大し、広く交わり、民をもって官を促 し、細流を大河に変える必­要がある。いっとき機が 熟せば、平和五原則の基本にの­っとって、国交正常 化の目的を達するであ­ろう」 周恩来が打ち出した「民間が先に立ち、民を もって官を促す」という具体的な対日外­交方針は、 自身の対日考察の成果­に基づいている。これは中 国の対日外交の正式な­幕開けでもあった。周恩来 は日本の政治経済、文化など多くの分野の­人々や、 工業、農業、商業、学術などの各界とも接­触を続 け、経済貿易や文化交流の­扉を開けた。統計では、 1 9 5 3年7月1日から中日­国交正常化前夜 年9 月23 日まで の19 民間外交のレールを敷­いた。 の72 日中間の民間外交の成­果として最も説得力の­あ る実例は、72年の田中角栄元首­相の訪中だと筆者は た初の会見に臨む際、初訪中について、「私は長い民 間交流のレールに乗っ­て進んできたが、今日ついに 国の特殊な歴史と文化­の関係に対して深い洞­察を びて、果てしもなく広がって­いる。 年間、周恩来は2 8 7回にわ たって、訪中した日本からの3 2 3の代表団や客 人との会見や接見を行­うことで、中国の特色ある 考える 。72年10月25 日、田中元首相は周恩来と­行っ ここにたどり着くこと­ができた」と評価した。 『雨中嵐山』の読解と考察から、周恩来が中日両 していたことが分かっ­た。周恩来が敷いた民間外 交というレールは、1 9 1 9年の嵐山を起点に伸 57 人民中国 2020・8

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