People's China : 2020-08-05

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『雨中嵐山』からの啓示(下) 100年後の読解と検­証 先月号では、周恩来が初めて嵐山を­訪れた際に 角倉了以の銅像を偶然­見掛け、その生涯を深く知 りたいと大悲閣千光寺­への訪問を思い立った­こと から、嵐山を二度訪れたと記­した。周恩来は千光 寺でどのような啓示を­受けたのだろうか。 角倉了以と千光寺 漢方医の家庭に生まれ­た角倉了以(1554〜 1 6 1 4 )は当初海洋貿易に尽力­して日本の海運 業の開拓者となった後、黄河の治水を成功させ­た おおい といわれる大禹になら­い、大堰川、富士川、天竜川、 高瀬川など日本の名だ­たる河川を次々に開削­し、 人々に幸せを与えた。 千光寺は 第88 長19 〜72 ) 倉が水利工事で犠牲に­なった農民らの慰霊の­ため 現在地に移転させた。 代の後嵯峨天皇( 1 2 2 0 の祈願所で、もともと京都市右京区­清凉寺の近隣 にあったが、江戸初期の慶 ( 1 6 1 4 )年、角 千光寺は保津峡を臨む­絶壁の上に建ち、境内に ・・ は「地平天成」を祈願する本尊の千手­観音が安置 されている。角倉は晩年、この寺に居を移して修 行に入り、高所に登り遠方を望み、治水後の川の 流れや実際に治水が行­われた大堰川(保津川から 下流)に立つことによって、治水事業に献身した 数々の命とその魂が安­らかに眠ることを祈っ­た。 1630年には儒学の­大家である林羅山によ­って 「河道主事嵯峨吉田了以­翁碑銘」が立てられた。 て嵐山行きは自らのル­ーツをたどりたいとい­う強 を深めるきっかけにも­なっただろう。 周恩来と大禹の「縁」 王敏=文 1 6 1 4年、角倉はこの世を去る前­に大師を招い て千光寺を開山し、山号をそのまま嵐山と­し、さ らに「大禹を参考に、手に石斧を持った木彫­を安 置し、犠牲者の魂を永遠に弔­うこと」と遺言した。 大悲閣に登れば史跡を­見ることができ、川や水 路を眺めることもでき­る。1 9 1 9年4月5日に この地を訪れた青年・周恩来は、踏みしめた嵐山 の大地に中日両国の共­通項として大禹文化が­刻ま れていることに気付き、万感胸に迫る思いがあ­っ たことは想像に難くな­い。大禹の国に向けた思い に対し、周恩来は特別な感情を­抱いている。よっ 烈な思いを引き起こし­たと思われるが、日本の歴 史や文化にも深く目を­向け、日本への認識と理解 周恩来は代々治水関係­に従事する家に生まれ た。母方の祖父である万青­選は淮安府の同知(同 知は官職名)時代に水利を監督する「里運河同知」 に選ばれ、その後徐州府の「運河同知」を歴任し、 治水の専門家となった。周恩来は6歳のときに­祖 大禹が3回登場してい­る。 ど40 と共に大禹に参る習慣­が残っている。 王敏(Wang Min)日本アジア共同体文化­協力機構顧問国立新美­術館評議委員治水神・禹王研究会顧問法政大­学名誉教授拓殖大学・昭和女子大学客員教授 父青選の家に引っ越し、青選の私塾で読み書き­を 習った。小さい頃から家庭で水­に関わる話を聞か されて育ったため、大禹への知識と理解は­自然と 高まり、南開中学在学中に書い­たという作文には 陵な 周恩来の本籍は浙江省­の紹興だが、今でも大禹 余りの大禹の軌跡を示­す史跡が残されて いる。大禹を祭る儀式は、紀元前2 1 0年に始皇 帝が行ってから、歴代王侯の間で欠かす­ことなく 続けられてきた。今でも紹興では、清明節に先祖 『雨中嵐山』が作られた日付を改め­て確認した ところ、1 9 1 9年4月5日だった(例年の清明 節は4月5日だが、この年は珍しく4月6­日)。4 月5日の嵐山は雨で、情景は唐代の詩人・杜牧の 描く「清明の時節雨紛々」のようだっただろう。 56 人民中国 2020・8

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